• 堀川恭司(福井県)
    【最優秀賞】 堀川恭司(福井県)
    • ■水上勉作品: 「流れ公方記」(中央公論社)
    • ■撮影場所: 福井市城戸ノ内町
    • ■撮影日時: 2013年1月10日
    • ■コメント:
       時は戦国の時代の冬、越前の国は、一乗谷、朝倉館では、公方様、足利義秋公をお迎えするくだり、一乗谷の冬の厳しさ、美しさを伝える一文として「義秋は、安養寺の新館に入ると、道中でみた広景以来百年の居城を誇る朝倉の、堅固な城郭に驚き、町家の繁栄する谷の全景を眺めてびっくりした。(中略)中央を一乗谷川が清流の音をたてている。向いは峨々たる山である、真正面の中腹に盛源寺が遠望できる。義秋は、周囲の山の雪が陽を受けて輝き、谷の裾が乳色にけむっているのに長旅の疲れをわすれた」
       今は、この当時の面影もなく、朽ち果てた谷には、朝倉館の所在を示す唐門が、印象的に残るだけで、幾度となく戦場となるを拒み続けた、冬の厳しさを、樹氷に陽光を浴びた、美しさの中にあらわしていました。
  • 井上優(福井県)
    【優秀賞】 井上優(福井県)
    • ■水上勉作品: 「若狭逍遥」(平凡社)
    • ■撮影場所: 高浜町薗部
    • ■撮影日時: 2015年7月17日19時
    • ■コメント:
      「若狭二十里のリアス式海岸をゆく小浜線が『松尾寺』から車窓にみせる青葉山の変貌ぶりは見事というほかはない。三つの峰が汽車の進行につれて重ね合わされてゆく」
      「三角形の青葉山の容姿は、子供心に一幅の額にはまった絵と思われた。故郷を九つのときに捨てて、諸所を転々して歩いた私のようなものの望郷のネガティブは、一幅の青葉山だったといってもまちがいはないようだ」

      小浜から、高浜方面に走っていくと、薗部の辺りでは田圃が一面に広がる。その奥にどっしりと青葉山が鎮座しており、これは確かに一幅の絵になっているなと思う。
      この風景が好きで、いつも車を走らせながら、感慨を抱いていた。近年では、道路沿いの開発が進んでいる。地元の賑いは喜ばしいが、同時に原風景も薄れていく。
      完全に元の風景を忘れてしまう前に、せめて望郷の念を想起させる一葉を残せたらと思い撮影に臨んだ。
  • 門野和子(福井県)
    【優秀賞】 門野和子(福井県)
    • ■水上勉作品: 「働くことと生きること」(集英社文庫)
    • ■撮影場所: おおい町父子
    • ■撮影日時: 2015年8月28日
    • ■コメント:
      若狭から京への電気の道。
      作者水上勉が戦時中、日本電気新聞の記者として送電線を保守する人達の苦労について調べるため、越後の山奥を訪問した思い出を書いたのが「山奥の保線工」である。
      水上はよく「京の河原町や加茂川へ行ってごらんなさい。夜だか昼だかわからないほど煌々と電灯が輝いている。あれはみな私の故郷(ふるさと)若狭から来ているのですよ」と言っていた。その若狭から京へ運ぶ電気の道が送電線である。多基の送電線を目の前で見ることができるこの地。日ごろ何気ないものと目に映っていたが、今改めて見る、送電線の力を……。ありがとう、送電線!
  • 渡辺剛(京都府))
    【町長賞】 渡辺剛(京都府)
    • ■水上勉作品: 「若狭海辺だより」(文化出版局)
    • ■撮影場所: 若狭本郷
    • ■撮影日時: 2015年2月14日
    • ■コメント:
      1. 写真は大島半島。橋が架かる前は渡し船で結ばれていたと云う。前夜からの雪が残り、冬の日本海特有の黒くて重い雲がたちこめるなか、小浜側から一瞬だけ朝日が入り、大橋を化粧しました。
      2. 本文より
      「京都の人文研究所長の柳田聖山氏は、大島半島を日本純禅の源流とおっしゃる。つまり、枇杷を売らぬと喰えぬような辺境に生れた二少年(後の大拙、儀山の両和尚)によって、廃仏毀釈でうろたえた日本仏教界に、活が入ったといわれるのである」
      「儀山は足もとの井戸水を大切にしろ、と教えたのである。心の井戸をである」
  • 渡辺俊策(福井県)
    【入選】 渡辺俊策(福井県)
    • ■水上勉作品: 「金閣炎上」(新潮社)
    • ■撮影場所: 京都市北区 金閣寺
    • ■撮影日時: 2015年2月25日午前11時
    • ■コメント:
       昭和25年に修行僧による金閣寺の放火事件が発生した。このことを題材にした小説に三島由紀夫氏の「金閣寺」と水上勉氏の「金閣炎上」があるが、先生は「三島は金閣寺を単なる文化遺産として捉えているが、僕は寺で雑巾がけをした男である。だから彼とは寺院に対する視点、観点が違う」と言われていた。
       主人公の林養賢の放火に至った心の深奧と苦悩は、語り尽くせぬものがあった。その後再建された金閣寺は、京都市内でNo.1の参拝者数を誇る有名な寺院であり、時間帯により寺の本体が池に写るのが絶景であろう。私は今年2月に訪れたが、外壁の金箔は色あせていて鮮やかでなかった。
  • 吉野耕司(京都府)
    【入選】 吉野耕司(京都府)
    • ■水上勉作品: 「五番町夕霧楼」(新潮社)
    • ■撮影場所: 京都府伊根町泊
    • ■撮影日時: 2015年4月9日
    • ■コメント:
       「夕、去いの。三つ股にお母かんが待っとる。夕、お前のおかげで、そくさいになったお母んが待っとる。幸さちもお照てるもみんな待っとるぞ」三左衛門は背中に語りかけた。(原文)
       夕子は、一年前、京の遊廓で働く決意をして山道から船着き場まで父親と二人の妹に見送られて歩いた道を変わり果てた姿で帰ってきたのである。
       物語の舞台は、最後の京都の街・五番町夕霧楼で夕子と幼馴染みの修行僧が情熱を傾け純粋で、はかなく切ない恋の果てに、夕子は病魔にむしばまれ、修行僧は京都一といわれる寺院を放火するという大罪を犯し、それを知った夕子は子供の時にこの僧と遊んだふるさとの百日紅さるすべりの咲く木の下で人知れず自殺をするという悲恋の結末が用意された。まさに水上文学が見事に開花した代表作である。
       私は、今年の4月に、夕子のふるさとの舞台とされた京都・丹後半島の伊根町泊小字小泊ことまりの漁村を訪ねた。今は「丹後天橋立大江山」国定公園に指定されているリアス式海岸の一角にあり、大きな玄武岩の岩肌に囲まれた数軒の漁を営む漁師の家とそこから伸びる奥深い原生林を記録にとどめたが、夕子はその原生林の中の三つ股と呼ばれる在所の木こり小屋で生まれ19才まで育ったのである。
       今、夕子と修行僧の魂は、ふるさとの波が穏やかで、しかし冬には季節風と吹雪で荒れ狂う丹後の海の底で静かに結ばれているのであろうことを祈り弔った。
  • 上中孝子(福井県)
    【入選】 上中孝子(福井県)
    • ■水上勉作品: 「失われゆくものの記」(水上勉全集20 中央公論社)
    • ■撮影場所: 名田庄虫鹿野皇王神社
    • ■撮影日時: 2015年7月29日
    • ■コメント:
      木地師は木材で生活用具を作る人達で、滋賀県愛知川の上流、六ヶ畑小椋の庄が発生の地と云われている。
      やがて人々は良材を求めて湖西の朽木や名田庄の山々へ移住して来た。今もその足跡は各地に残る。
      轆轤(ろくろ)を使って木材の加工技術を教えたのは五十五代文徳天皇の皇子、惟喬親王であった。そのため小椋の庄では祖霊神とし大皇大王神社に親王が祀られている。
      各地に散った木地師達も親王を祀る神社を建てた。
      名田庄虫鹿野の皇王神社もその一社宮である。
      鳥居の前に佇めば、身が引き締まり、奥の本殿は幻想的な雰囲気を感じた。今も山沿いの古里に静かに祀られている。
  • 本合達雄(京都府)
    【入選】 本合達雄(京都府)
    • ■水上勉作品: 「五番町夕霧楼」(中央公論社)
    • ■撮影場所: 京都市五番町
    • ■撮影日時: 2015年8月10日16:50
    • ■コメント:
      水上勉先生の代表的な小説の一つであるこの「五番町夕霧楼」は、若いころ読んだことがあるが、今回改めてじっくり読み、以前とはかなり異なる感慨を覚えたのは確かである。薄幸な一人の女性の短い生涯、それは「可哀想に…」という昔の思いの外、今回はなにか詩的な美しさともいうべきものを感じたのである。
      まず片桐夕子の人生は短かったということが、「美しい人生」の大きな要素になっていると思った。しかも彼女は京の五番町で精一杯生きた。短い人生であったからこそ、よけい美しい。そして重度の結核に身を冒されながら、金閣寺に放火し自殺した兄妹のような思いの櫟田正順を追うようにして、自分の生まれ育った故郷でその生涯を閉じた。まさに短く美しい人生であった。「五番町夕霧楼」の最後の二つの文を書き、擱筆します。
      「蜩ひぐらしが鳴いた。父娘おやこが墓地を下り切ると、夕子の背中へいつまでも花が散った」
  • 竹洞賢二(埼玉県)
    【入選】 竹洞賢二(埼玉県)
    • ■水上勉作品: 「櫻守」(新潮社)
    • ■撮影場所: 埼玉県小川町
    • ■撮影日時: 2014年4月9日
    • ■コメント:
        写真を趣味として随分になりますが、桜の時期になると少々心苦しくなる思いがありました。幼い頃に見た桜はうす桃色のものが多かったのですが、最近の桜は白色が強くて「をもしろみ」に欠けるような気がしていたのです。歳とともに、それが桜の種類によるものだとわかり、それ以降はできるだけ白色でない桜を探して撮るようになりました。水上作品の中に「櫻守」があると知り、読んでみると、思わずくすっと笑いがでるような記述があったりして親しみを覚えまして、今回の応募をした次第です。例えば「小野甚にいた時、京でよくみた白い花だけの染井吉野が弥吉には美しくみえて、また、その種の桜が、植えかえもよくきいたので、苗圃から庭へこの種を重宝して運んだ。竹部にきいてみると、これは日本の桜でも、いちばん堕落した品種で、こんな花は、昔の人はみなかったという。本当の日本の桜というものは、花だけのものではなくて、朱のさした淡(うす)みどりの葉と共に咲く山桜、里桜が最高だった」。この一文だけでも気持ちが救われたような気分になりました。
  • 石津義雄(福岡県)
    【入選】 石津義雄(福岡県)
    • ■水上勉作品: 「坊の岬物語」(河出書房新社)
    • ■撮影場所: 鹿児島県さつま市坊の岬
    • ■撮影日時: 2015年7月19日14時
    • ■コメント:
      『坊の岬物語』は、水上先生の作家活動と読者から寄せられた書簡とを織り込みながら描かれた作品です。本書は、鹿児島・枕崎の久須美芳の書簡から始まる。小説『蜘蛛飼い記』を読んだ感想の中のことでの"女郎蜘蛛のことを鹿児島では山コツ"ということ、"山コツは足が折れ千切れても若いうちなら生えかわってくる"という文章に先生はとても関心を寄せられた。「じつは私に足のわるい子がいた」と、直子さんの誕生から回復訓練を行う様子、先生自身の身の回りのこと、家族のこと等、小説家としての心境が痛いほどに書き表されている。九州別府の温泉療護園で訓練中の直子さんに会いに行った際、奥様にこう伝えた。「気ちがいなことあるもんか……ちゃんとした健康人だよ……おれ、別府へきて直子のあんな姿をみたら安心したし……ついでに枕崎へいって、あの手紙の主はどんな男か見てみたくなったよ……汽車をしらべたが、今晩おそく出ると、あした朝一ばんに鹿児島につく……で鹿児島から枕崎まで車で三時間もあれば充分だ。ちょっと行ってきたい……」(中略)
      「きっと……おれがいけば、あの男は歓待してくれるにちがいない。おれは、みてきたい所があるんだ」
      「どこ?」
      「坊の岬だ」
       私はこの言葉に惹かれて、枕崎、坊の岬を目指して出かけました。
  • 河内フジ子(大阪府)
    【入選】 河内フジ子(大阪府)
    • ■水上勉作品: 「若狭海辺だより」(文化出版局)
    • ■撮影場所: おおい町岡田
    • ■撮影日時: 2015年4月7日11時頃
    • ■コメント:
      「春がきて、桜といえば、在所の佐分利川岸に、何十本もの若桜が威勢よく枝を張って、花どきは、桜いろの綿をのせたように、たわんだ梢が、人の頭にとどくほどだった景観を思いだすのである」(「在所の桜」より)
      昭和二十三年の台風で佐分利川が決潰して、泥土と化した田圃の中に、倒れた並木や露出した根を見た時、水上先生の心中はどれほど悲しかったと思われます。昭和から平成へと時は過ぎ、後に植えた桜の苗木も大きく成長し、今年も美しい花を咲かせていました。
      水上先生の心に描いた風景もこのような景色だったのかしら……?と想像しながらシャッターを切りました。
  • 千秋清治(福井県)
    【入選】 千秋清治(福井県)
    • ■水上勉作品: 「弥陀の舞」(朝日新聞社)
    • ■撮影場所: 越前市粟田部町 和紙の里会館
    • ■撮影日時: 2015年7月14日
    • ■コメント:
      味真野で生れたくみが五箇(不老、岩本、大滝、定友、新在家)の紙漉き屋で子守として働く。その後、越前和紙の漉き子となり、大変な苦労をし、波乱の生涯を送った。
      その五箇は今もなお栄えている。
      寒中に女性たちが手を凍らせて漉いた製法は今も変りないとの事。その越前和紙を使用して七夕吹き流しコンテストが和紙の里会館で行われました。その場を見学に来た地元の園児達に、一生懸命、和紙ができるまでと、和紙を利用した作品を説明しているところを撮影しました。
  • 森瀬一美(福井県)
    【入選】 森瀬一美(福井県)
    • ■水上勉作品: 「湖笛」(毎日新聞社)
    • ■撮影場所: 滋賀県高島市安曇川
    • ■撮影日時: 2014年9月
    • ■コメント:
      柏原の小谷清兵衛の娘もんと百姓弥助の二人が、大溝城主となった京極高次を頼り旅立ち、長浜、塩津、海津、そして今津から大溝に向かった。その途中に湖北随一の大川である安曇川があり、その砂河原の岸は森のように暗いとありました。私は夕刻ではありましたが、この二人と同じ場所に立った時、当時は咲いているはずのないアワダチソウの花が月に照らされ浮き上がっていました。花言葉は「生命力」との事であり、まさに、これからの二人の行く先を願っているようにも思われて、シャッターを押させてもらいました。又、これから先も、水上先生の小説を基に主人と写真旅をしたいと思います。
  • 森瀬一馬(福井県)
    【入選】 森瀬一馬(福井県)
    • ■水上勉作品: 「湖笛」(毎日新聞社)
    • ■撮影場所: 滋賀県守山市浜町
    • ■撮影日時: 2015年1月
    • ■コメント:
       京極高次は、失意の中妹竜子の子の行方を尋ねるため若狭小浜の万徳寺を訪ねた。その時高次の心中を見た住職から「会わせたい人がいる」と高僧の仙岳宗洞禅師を紹介され、その禅師から「小我を捨て大我に生きる」ことを諭され、高次は人生の岐路を見つけたとあります。
       そんな仙岳禅師にも、更に慕う玉叟禅師への入門の許しを得るのに寒風身を裂く雪の中で100日余にわたり堅田の湖上に舟を浮べて座禅を組んだといわれ、強い信念の持主であったと考えられます。
       そんな折、妻と訪れたこの地で、雪をかぶり、朝もやに包まれた比良山系の風景を見て、仙岳禅師も湖上から眺めたであろうと思うと、切り取らなければと感じた1コマです。
       いつの時代も、お互いの立場の違いはあるものの、「小我を捨て大我に生きる」ことを持ち合せる大切さを思うのは私だけでしょうか。
  • 橋本弘子(福井県)
    【入選】 橋本弘子(福井県)
    • ■水上勉作品: 「はなれ瞽女おりん」(新潮文庫)
    • ■撮影場所: 三方石観音御手堂
    • ■撮影日時: 2015年8月26日
    • ■コメント:
      若狭三方の片手観音さまは弘法大師さまのお作りになった御像の由でござります。右の御手がなくても淋しい片手で立っておいでるそうでござります。この観音さまのことは越中、加賀でもきいておぼえております。何でも片手でおいでるお姿なので、体の不自由な人びとの守り神、お堂へまいりますと、御像のわきに近在から集まった不自由な人たちの使いふるしたギプスや松葉杖や義手義足人型がいっぱい山と積まれ、満願快癒を祈る人びとの参籠が年中休みもなくつづけられているそうでござります。盲目の者もお札を頂き、精進潔斎して百万遍の念仏を唱えますれば、十人に一人はみえぬ眼がひらけて見えるようになるだわと申されております。同じ旅をいたしますなれば、一どでもよいから詣りしたい。(おりんは思っていたのでしょう。昔は体が不自由でも一人で食べていかなくては生きていかれなかったのですね)
  • 堀川あけみ(福井県)
    【入選】 堀川あけみ(福井県)
    • ■水上勉作品: 「はなれ瞽女おりん」(中央公論社)
    • ■撮影場所: 福井県三方上中郡若狭町
    • ■撮影日時: 2015年3月21日
    • ■コメント:
       原文によると「若狭三方の片手観音さまは、ありがたえ仏さまでござりました。おらは、ながいあいださがしあぐねていた平太郎さまに会えたのでござります。あとで、きくと、平太郎さまも、おらことをずうーっとさがしておられて、たぶん、おらが南さ南さ旅してきて、若狭へくるなれば、この堂へ詣るのではないかと思い、ずうーっとながい辛抱さして、店さひらいて待っていたことがわかりました」
       この本の中で、はなれ瞽女のおりんが、約束の場所若狭に来るまで、平太郎は長い間、若狭を放浪していたのでしょう、追われる身の平太郎は、宿にはあまり泊まらず、野宿の日が多かったのではないかと思われます。若狭の三方には、湖のほとりに茅葺屋根の舟屋が多く、平太郎にとっては夜露をしのぐ、最適の場所であったのではないでしょうか。
  • 猿橋麻生(福井県)
    【入選】 猿橋麻生(福井県)
    • ■水上勉作品: 「玉椿物語」(新潮社)
    • ■撮影場所: 鯖街道針畑峠
    • ■撮影日時: 2015年8月6日18:58:38
    • ■コメント:
      淡雪や若狭に残る京なまり――鯖街道針畑峠(標高850m)から夕暮れの常神半島、沖の石、久須夜ヶ岳、多田ヶ岳をとらえている道の歴史は千三百年、運んだものは塩、象、鐘、そして文化である。『玉椿物語』は信長の頃、若狭守護武田元明とその妻京極竜子を中心に描かれる歴史小説である。
      とりわけ佐分利石山城主武藤上野介友益が登場する場面がお気に入り。
      「お屋形様……(中略)われらは、武田の敵信長に……断じて屈するわけに参りませぬ。(中略)石山城は……武田家代々のお屋形様につかえたればこその城にござります。最期の武田の家臣として……上野介は、若狭の土に果てとう存じまする」(『信長公記』にも、1570年6月、明智光秀と丹羽長秀は石山城をほろぼし「針畑越えにて帰る」とある)。おもうに人の評価は時が決める。武藤上野介は忠義の為に信長と戦った男である。「おおいの誇り」である。