一滴の水脈
9.親から貰った心
そういう時代を生きてしまった。困窮の中の歌づくりというか、暮しの工夫心を貰った私にも、成長路線に乗ってくるこの国家と同じように太平洋戦争後の敗戦、飢餓も経験いたしましたけれども、軍隊ももちろん、行きましたが、父と同じ兵科であった輜重輸(軍需品の運搬役)卒という兵科もつとめてきたんですけど、どこか贅沢というものがいまだ身になじまないところがあるのです。たとえばお膳に御馳走が出たりしますと、そりや有難いですけど、待てよ、こんなお頭付きのお魚をたらふく食っていたら、おかしいことだぞと、なにか梅干しと沢庵だけで食っていたあの時代へいったん自分を引き戻しておいてから箸をつけるようなところがございます。駅弁でもこの頃は蓋をあけて蓋についたお米の方からとって食べています。そういう性格は直らんですね。
ですからどうも、貧困であったということ、それから父母が目の前で仕事をしておるといったようなことを見ないでくらすわけにはいかなかったから、父母が教科書でしたので、まあ、私が儀山禅師の一滴の思想というものにひかれる理由は、なにも哲学的とか学問的とか宗教的なことではないんです。ただ、そういう心というものを親から貰っているわけですから。父も母もたいしたことはいいませんでした。儀山さんもそういうことはいわなかったと思う。けれども、「馬鹿者、もったいないやないか。なぜ二、三歩あるかなんだ」それですわ。
ですから、たとえばうちの親父がカンナ屑の中で仕事しとって、おおぜい子供がおりましたから、喧嘩してカンナ屑踏むと、「こら、こら、何が隠れておるかわからん。釘が隠れとる、カンナの刃が隠れとる、足が危ないぞ、なんで足もと見て遊ばんのや」こういうて親父は叱るわけです。それは、のちにお寺へ行って修行して禅道場の玄関に「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」と書いてあるあの四文字でした。禅の極意ですね。足もとを顧み照らせと。それは学問的な宗教的な言葉なんだけれど、うちの親父にとっては釘が隠れとるぞということでした。足を怪我するから注意しろという生活ですよね。そういったふうにじつは、学問が日常にこぼれていた。