一滴の水脈
8.母の笑頗が心を打つ
そのなかで父母たちは、切ないけれどもいろんな言葉をこぼすわけですけれど、私はのち、小説家になりましたが、そういう生活苦の材料が小説を書くバネになりました。文学賞を頂いてから、父母もまだ生きておりましたので多少の孝行というものはできましたけれども、それも金銭的なことだけのことで、生意気なことをいえないんですが、たまに戻って来て父の顔、お袋の顔を見ておりますと、やはりこれも同じように暦は古きことに戻っていきまして、母親がもっと歪めばいいのに、ケロリとした笑顔のいい人なのに驚かされました。もう少し眉根が歪んでいても不思議じゃないのに、お袋はなんでこんな笑顔をするんだろう、というようなことが私の心を打ちました。
やはり運命を呪うというよりも運命を抱いて、当然のことのように辛いことでも受けて生きてきたというようなことが身についたんでしょうか。母が人の悪口を強くいうようなことは私の記憶ではございませんでした。いまこの「一滴」を建てておるここもお袋たちが働いた、小作人の汁田(しるた)んぼというて、非常に辛い労働の田んぼでございました。目をつぶると膝から腹まで泥につかって人さんの田んぼの苗を植えているお袋の姿がうかびあがります。
私の見た母はいまいいますように、二十代の母ですから、いまの二十代のお嬢さんが農業を嫌うという話を聞きますけれど、母は嫌ったら食べていけなかったわけですから・・・。晩年は農地改革で多少の田んぼというものを持ちましたけれども、私の少年時代は地主さんよりも早く起きて早く田んぼへ行って駄賃貰わなきゃ生きていけなかった。辛い労働だったと思いますが、それに耐えて村小使いのようなこともして八十二まで生きてくれまして、その一生をこうして故郷へ帰って振り返っておりますてェと、やはり教えられるものがいっぱいございますね。
まあ、足はば三尺です。勉よ、偉そうなこと言うな、今日もテレビでこんな偉そうなこと話しておるのを地下でなんと思うてますでしょうか。お前は小作人の子なんだから足もとにある土でもいじって、そして身の巾に合うたことで生きるのがいい。それがお前の道だ。勇み足でことをするなというふうなことをいいそうなんですね、お袋は。いつもそんなこといっておりましたからね。私もいろいろ挫折して村へ帰ってまいりますと、にこやかな頻だけれど時々ポツリとこぼされる言葉が皮肉というのではなくて、グサッと刺さるようなことを、きちっとにこやかにいうてくれる人でしたから。