一滴の水脈

7.赤貧洗うごとき少年時代

私の生まれたのは大正八年でしたから、米騒動で象徴されますように日本の農村が最も疲弊した時代といっていいでしょう。日露戦争で勝ったものの、軍需産業の成金がはびこって、その裏側で農村の疲弊がひどかった時代です。そういう時に生まれてしまったんですから、物が食えないとか着る物がないとかいうのは、貧農生活には常住なことでございました。私の生まれた家も、赤貧洗うごときものであったと思います。

いまもう、そういうこと話しても皆さん信じられないと思うんでございますけれども、まあ、家には全盲のお婆ちゃんがいたということもございまして、父に収入がなくて、大工という手職をもっておりましたけれども、そう、普請というものが農村にないわけですから、遠いところへ出稼ぎに行かなきゃならない。遠いところへ出稼ぎに行くことができずに、目のつぶれた母親がいた父は、長男でございましたから仕事のない村で苦労したようです。

私はその父が三十三の時の子でございます。お袋は十九で私の家へ嫁に来たといっておりましたが、お袋が二十一の時に私を生んでおります。三十三と二十一で、田んぼも山もなくて自分の家とてない借家住いの若父婦が、子供を五人も生んでしまった。ですから、私の幼年期の記憶では、たらふく御飯を食べられたり、人並みの着物を着たりすることはなかったです。そして、家に電灯もごぎいませんでしたし、まあ、電線はきておったけれども、父が電気代を支払わなかったので切られました。電線の切れた絶縁棒が屑屋の壁に突き刺さっていて、プツッとペンチで切られた線が恨めしかった。赤トンボがよくそれにとまってましたよ。

まあ、そういった家でしたからランプの油を惜しめ、日が暮れたら早く寝ろとかいわれました。夜起きているのは極道でしたね、油使うもんですから。そういった時代です。ですから、後で考えれば儀山善来禅師の思想をそのまま貧農の子が生きておったわけでございます。まあ、文盲の父母でしたけれどもいろんなことを教えてくれて、私が九歳半で、さっきもちょっとふれましたけれども、父が外へ大工へ行けないもんですから、村々でいろんな大工道具を使うてする修繕のこととか、いろんなことをして食べておりますが、そういうなかに棺桶をつくるという仕事がございました。一時父は葬具一式の看板をかかげていました。そういう生活を私は少年時代にじつくりと見まして、お寺さんへのご緑で京都の相国寺、先ほどいいました大拙承演、鬼大拙さんの道場のあった寺へ小僧に行くんでございます。

九つまでの記憶では、母と父が貧乏だということでしっくりいかなくて、しょっちゅういがみあう姿も見ましたし、しなくてもいい喧嘩を腹減りゃするもんですね、人間はね。そういうようなこともよく見まして、ひもじいということは辛いことで、怒らんでいいことを怒りますし、拳骨が飛んでこなくてもいいのにお父つあんの拳骨がとんでくることもしばしばでした。早うこんな家にいるよりはお寺へ行った方がいいと、私は九つで話に乗ったんですけれども、私を捨てる父母もそういう生活に喘(あえ)いでおりました。