一滴の水脈
6.中国から伝わる純粋の禅
この「曹源一滴水」といえば、もう少し深い意味もございまして、これは中国禅というものを勉強いたしますと、必ず出てくる言葉でございます。達磨さんから伝わる禅というものが六祖慧能(ろくそえのう)という、この方は文盲であったんでございますが、米つき小僧からお悟りを開いた偉いお坊さまで、日本に伝わる道元さんの曹洞宗も、栄西さんの臨済宗も、隠元さんの黄檗宗も、すべてこの慧能さんの南宗禅、あるいは頓悟禅(とんごぜん)というものを日本に伝えたものです。この慧能さんの禅のことを「曹溪の道」と申しあげる。
で、禅というのはいろいろ宗派がございますけれども、純粋な一つの修行、何も持たない清貧、差別や貴賎や高下、左右、どんな物でも対立的に見ないで、あるべきように見て生きていくという、そういうすばらしい思想の道というものが中国から伝わってきているわけですが、そういう道を「曹溪の道」と申しあげる。
それで曹源寺という岡山にあるお寺の名前も、実は中国からの、深いそういう禅の流れにのっとったお寺の名前でございます。もちろん曹源寺という寺は中国にも数多く、昆明の山奥にもございました。ですから岡山へ修行に行った大島の少年二人は、中国から伝わる純粋の禅を学んで一本立ちしたわけですね。まあ、そういうことがいえるでしょう。だから、「曹源一滴水」という言葉は、滴水さんがうかつに風呂の足し水の半分残ったものを無造作に捨てた、それを老師に叱られた、あの一言によって人間が変わった。曹源一滴水にはそういう深い意味があると同時に、「曹源一滴水」という五字の中には六祖慧能からの人間の歴史が詰まっている。若狭の村が、哲学的なふかいものを幕末から明治にかけて活性化させたといえるでしょう。大拙承演と儀山善来はそれを磨きなおした。身現というかな、体現、まあ、体で現わしてみせたといえるでしょう。学問や理屈でおぼえた人ではなくて、身で学んだ禅の本道でしょうね。そういったことを若狭の山河が私に囁くんです。
ですから私は、中国にも行って曹溪の道を辿り、黄梅県東山から広州の慧能終焉の地を歩いて一滴の水の源流に佇みましたが、その時考えたことは、待てよ、自分もあと十年ぐらいで死ぬんだけれども、自分はこういう有難いところに生を受けていて、そして坊さまは嫌だ、お寺は嫌だと言って、『雁の寺』などというような小説で、和尚さん殺しを書いて、活動写真にしたり芝居にしたりして、絵空事で印税をもろうて飯を食ってきたけれども、もう少し足もと見直したらどうだと、山や海がね、私にそういうんですわ。それでね、この頃ここにこういう「一滴文庫」という図書館をつくって皆と勉強しなおそうと思って出発した。
まあ、どこの農村もそうでございましょうけれども、地方史というのはやはり、次、三男が外に出まして長男が家をかろうじて守ってきたという、地方農村の経済的条件がございますわね。ですから、残っておる研究史料もみな、長男の歴史でしょう。そうすれば次、三男は名前がわからなくても仕方がない。私も水上家の次男として九つで京都へ行ったんですが、小説家になって、多少は人に知られていますけれども、これだってどこかの刑務所で死んでしまえば忘れられた次男坊でしょう、ええ。皆そうして貧農の子らは都会の草むらで死んで行ったのです。死屍累々の次、三男の歴史というものが山の背面にあって、そしてここに長男の守り抜いてきた山河自然がある。