一滴の水脈

5.参禅して苦しんだ漱石

これもまた、有名な話でございますけれども、夏目漱石は『吾輩は猫である』『虞美人草』『三四郎』などを朝日新聞に連載して、日本一の文豪であったわけですけれども、その漱石が、たいへん神経を痛めた時期がございました。友人に菅虎雄(すがとらお)という一高の教授がおりました。その人の薦めで鎌倉の円覚寺へ坐禅を組みに行った。まるで頭の中が戦争をしておると、その戦争をとり鎮めたいというふうなことを漱石は菅さんに手紙でいっておりますが、まあ、神経衰弱の強度な兆候だったんでございましょう。

帰源院という塔頭が今日もございますけれども、そこで宗活という、釈宗演さんの一のお弟子さんでこの方も偉い人ですけれど、この人に案内されて坐禅を組み、円覚寺の隠寮(いんりょう)で宗演老師と会います。老師と居士が会うのを相見(しょうけん)といいますが、その時に釈宗演は漱石さんに、父母未生(ふぼみしょう)以前の本来の面目を見つけてこいという公案を出した。お父さんお母さんの生まれない前のお前さんを見つけてこいと。禅問答というのは難しいもので、私などそういう問題を貰えばいっそうノイローゼになってしまいましょう。きっと漱石さんもお困りになったでしょう。

帰源院へ帰った漱石は坐禅を組んで七日くらい経ってからでしょうか、考えたことをまた円覚寺の隠寮へ行きまして、宗演さんに答えを申し上げる、宗演さんは側にあった鈴を振って、「そのようなことは少し大学を出て勉強をすればいえる、もう少し本当のところを見つけていらっしやい、チリンチリン」というふうにあしらわれてしまった。自分は門を入る資格はなく、門外に佇んで門を仰ぐに過ぎなかった。喪家の犬の如く円覚寺を去った、と漱石は書いております。『門』という小説ですね、これは。

当代の文豪にガーンとタガをはめ込んだ人が、この若狭の私たちの村のすぐ隣の高浜の一瀬五右衛門の次男坊であった。漱石さん、そのことご存じだったかなあと、私はふっと在所びいきで思うんでございます。やはり若狭の必ずしも富裕とはいえない農村の次男坊が、むかし大島を出た大拙承演、儀山善来が草鞋を脱いだというご縁によって曹源寺に入れて出家できた。その宗演は三五歳で鎌倉へきて管長になっていた。儀山の思想が人間に宿って花開いた。そういったことについては夏目漱石は一行も書いておりません。ただ、円覚寺で対決した楞伽窟(りょうがくつ)という宗演の風貌を赤銅色をした厳しい老師であったということを『門』に書いておりますが。