一滴の水脈

4.噴き出る儀山の思想

滴水さんの天竜寺の道場はおおぜいのお弟子さんを作り上げていきました。さっきいいましたように、神道に転向するようなお坊さまの多い時代なのに禅が活気をもちまして今北洪川(いまきたこうせん)、それから荻野独園(おぎのどくおん)、こういう方も、大拙、儀山さんの曹源寺の系統でございます。それからまた、妙心寺系では釈越溪(しゃくえっけい)と、この方もやはり大飯町からちょっと行った高浜の造り酒屋の息子さんでしたけれども、一日で酒が腐って酢になったので無常を観じて出家したと伝えられています。この越溪さんも、滴水さんや今北洪川さんらが儀山さんにつかれたように、儀山さんについて妙心寺の僧堂の師家(しけ)になられました。

そういうふうに儀山の思想というものが、人材によって湧き水のように天竜寺にも妙心寺にもパアーッと噴き出たといいますか。まあ、その湧き水がもう一つ、鎌倉の円覚寺に湧くんでございますが、これは、やはり高浜の、儀山さんが十一歳で出家なさったあの長福寺の隣に、一瀬五右衛門さんという、いまもおうちがございますけれども、ここの次男坊で常次郎という名であった。のち、釈宗演(しゃくそうえん)といわれた方は越溪さんの弟子になったので、釈という名字に直るんでございますが、一瀬常次郎はやはり儀山道場へ行きまして儀山さんの最晩年でございましたけれども、そこでたたきあげられて、今北洪川さんが管長をしておられました円覚寺へ三十五歳で赴任してゆかれました。

若い釈宗演さんは鎌倉でこれまた元気な禅風をおこされた。有名な浜口雄幸(おさち)、内閣総理大臣をなさった人です。それから、中島久万吉、夏目漱石、鈴木貞太郎(大拙)、西田幾多郎とつながるあの居士禅・・・鎌倉には政界人、財界人に名をなしておられる方たちが禅にひかれて、釈宗演の道場で坐禅を組んで、自分を考えるという居士禅が栄えたのでした。

この釈宗演さんは、明治の十四年に万国宗教会議というのがシカゴであったんですが、日本の代表になって行かれました。その時に通訳になって行った人が鈴木貞太郎でした。これは加賀の三太郎といって藤岡作太郎、鈴木貞太郎、西田幾多郎・・・金沢の大学で秀才だった哲学青年たちでございますが、鈴木貞太郎が英語ができたもんですから、釈宗演さんの通訳でシカゴヘまいりました。このご縁で貞太郎はアメリカに禅を広める自分の生涯の仕事にめざめました。貞太郎は鈴木大拙という名をのちに名のりましたが、偶然なことでございますが、釈宗演さんの、我々若狭の大島の半島の水のない村を最初に出た少年の名前を鈴木貞太郎は頂戴して大拙という号を貰ったわけです。まあ、そういうふうに鎌倉にまで儀山老師の思想が湧き水となり、釈宗演の受け継いだ禅が一国の宰相、あるいは文豪といわれた漱石さんにまでしみわたっていくのです。