一滴の水脈

2.若狭と岡山を学ぶ禅の道

それで、今日は先ほど申しあげた儀山善来(ぎさんぜんらい)という和尚さまのことを話してみたいんです。この「一滴文庫」のあります本郷村、と昔はいってたんですが、いまは大飯町になっておりますけれど、海に半島がつき出て湾を抱え込むようにしております。たいへん穏やかな風光明媚な土地柄だと私は思っておりますが、北の方へ半島が出た突端に小さな村がございまして、半農半漁の小集落がたくさん集まっておりました。お寺さんも多いんでございますけれども、その村に生まれた儀山さんは、幼名はいまわかっておりません。後(うしろ)家に生まれられた、ご長男であったのか、次男であったのか、三男であったのか、詳しく郷土史は書かないんでございます。

村は大島といっておるんですが、小集落に生まれて十一歳でお坊さんになられました。享和二年の生まれだということでございますから、徳川時代も幕末にさしかかっている時代でございます。天明から寛政の郷土史をひもときますと、ずいぶん凶作が続いて村の人々は苦労したという記録もあります。とりわけ、半島では水利が悪くて天水を屋根の上に受けて、それを溜めて飲み水にして残りを風呂に使って、また、その残りをナスビやキュウリにやるというふうな、たいへん水を大切にしてきた村だったと、いまも古老は語るんでございます。

そういうところに生まれた儀山さんは十一歳でこの村を捨てまして、私どもの大飯町と連なってあります高浜に、長福寺という相国寺(しょうこくじ)派のお寺がございますが、そこで得度されました。そしてお経も習い行儀も習われたのでございますが、十七歳か十八歳の頃に、この若狭を出奔、諸国修行に出られて、岡山の曹源寺、岡山の殿様は池田公でございますが、この池田家の菩提寺であります大きな本山、今日もございますけれど、この大きなお寺へ草鞋(わらじ)を脱ぎまして太元孜元(たいげんしげん)という偉い老師さまについて修行なさったと、言い伝えられています。

この儀山少年が岡山へ向かった五年か六年前に、もう一人の少年がこの大島の同じ村から出ております。これは友本(とももと)家というて、いまもお家は残っておるんですけど、その友本家の、これも名前もわからない少年がやはり飢饉続きの村を捨てて、広みへ出たのでございますが、その人もやはり曹源寺に草鞋を脱いで修行いたしておりました。大拙承演(だいせつじょうえん)といいます。その兄弟子がいるところへ儀山さんは草鞋を脱いだとみていいでしょう。

京都、大阪へ行けば大きなお寺もあるんですが、なぜか京と大阪へ行かないで岡山へ行った。ここがその若狭と岡山をつなぐ精神のルートといいますか、禅の道といってもいいでしょう。そういうものがあったと思います。そこで二人が仕上がっていくわけですけど、てっとり早く申しあげると大拙承演という、さきに出た儀山さんより五つ上の人は相国寺の老師(ろうし)になって、いまも残っております専門道場、まあ僧堂(そうどう)でございますが、そこを開単(かいたん)なさって鬼大拙と言われるほど怖い老師さまになられました。残念なことに五十何歳かで、若死にでございますが、病気で亡くなられました。

で、五つ下の儀山さんのほうは、曹源寺の考師につきまして徹底的に曹源寺で修行を尽くしておられたものですから、太元老師さまが晩年にこの儀山さんを跡取りになさいまして、儀山さんは曹源寺の住職になられました。儀山さんは非常に厳しい方でございました。もちろん、その兄弟子の大拙さんが相国寺に出ておるということもございまして、大徳寺とか妙心寺からも、管長さんになってくれとお迎えがきまして、儀山さんは大徳寺にも草鞋を脱がれ、妙心寺にも行かれましたけれども、また、堺の南宗寺なども復興なさけますけれども、とどのつまりはこの曹源寺へ帰って、そして師、孜元老師のあとを継いでおおぜいの雲水(うんすい)を教育なさったのです。

明治はご存じのように禅宗だけではなく、天台、真言、真宗まですべての仏教が弾圧を受けて、おおぜいのお坊さまが神官に転向していく時代でした。幕末期の国学、神道の復興のおかげで受難時代といってもいいぐらいの、仏教がたいへん衰微していく時代でございました。そういう時代なのにもかかわらず、池田公の菩提寺でもあったせいで、熊沢藩山(くまざわばんざん)というような先鋭的といってもいい国学者がいて仏教弾圧の旗頭だったのですが、そういう学者やお殿さまの下にありながら儀山さんは禅の道場を守ったといえるでしょう。