一滴の水脈

1.贅沢からのUターン

私は、若狭の村を九歳半で出て臨済宗の禅寺で小僧をつとめましたが、修行してちゃんと坊さまの道をいっておればよかったんですが、十九歳でそこを脱走して、いまは、売文の道にはいっています。人間はどうも、七十になってしまうと小さい時分に戻るといいますか、ごく自然に、当時は嫌だったお寺ですけれど、どこか懐かしい思いがしはじめて、亡くなっておられるご師匠さまたちが瞼にうかびます。師匠にはいろんなことを教えていただいたわけですから、その言葉の一つ一つが、苔石をおこすように、忘れていたことどものなかから思い出されてまいります。

禅というのは本来、無一物を建前として清貧を尊ぶ一つの宗派でございます。東京でくらしている私自身の身辺を振り返りましても贅沢三昧です。昔の小僧時代のことを思うと、まあ夢のような贅沢なことをやっておる。それでふっと田舎へ帰って自分の九つ時分に戻ってみると、非常にハングリーではありましたけれども、なかなかキラキラしたこともありまして、そういう時間へ許されるならいつも戻っていたいなという思いがしないでもありません。まあ、飽食時代にハングリーになれといっても無理ですけど、心の問題だけは自分に言い聞かせて、努めてそっちの方へUターンしてみてもいいんじゃないだろうかと思って、一滴運動といいますか、この在所を出て「曹源一滴水(そうげん いってきのみず)」というすばらしい言葉を今日まで残しておられる和尚さまの思想を、受け継いでみたいものだという思いがいたしましてね。

それで、人さんの捨てている竹屑を拾ったり皮を集めたりして紙を抄いて絵を描くグループをつくったり、あるいは裏山の土を掘って、骨壷を作ってみたりね。まあ、そういうことをして人さんにあげて楽しんでいる。それだけのたのしみで、他意ないんです。ごく自然にそんな気持になったんです。してきたことがしてきたことでございますから、その責任を背負って私は死ななきゃなりません。けれども、逃げるというわけではなくて、自分がやってきたことをひきずりながら、もう一つ、自分を見つめ直してみようといったような、そういう昨今なんですね。