お盆に考える

2012年8月16日

 先日、来館された方から「今日は久し振りの一滴文庫ですけど、明日は久し振りに親戚一同揃ってお墓参りに行くんです。」とのお話を伺いました。こんな話をきくと、そういえば、お盆だな…と、改めて思い起こされます。
 人間(広義の意味で)とは、元来周囲の人の死を悼むものです。これは、過去から現在まで続いている人の性でしょうか?最古の例をあげると、旧人であるネアンデルタール人は、亡くなった隣人の墓に花を手向けたといわれています(花粉分析の結果から)。日本でも、旧石器時代から人の死とは特別なものとして考えられていたようです。特に定住が進んだ縄文時代からは、土地の占有(これも広義の意味で)に対する概念も生まれ、人の一生と郷土とは切り離せないものとなってきました。ここ数十年、そのようなクビキから離れた生活を営む方々も多いようですが、それでも「盆暮れ正月」という年中行事では郷里に戻り、家族親戚一同で祖先の霊を祀る行事を実施します。ここから考えてみると、祖先の霊を祭るお盆のような行事は、亡くなられた人のためにある行事という意味ばかりでなく、生きている人の繋がりを再認識する行事(この場合、人の集約を行っているのは祖霊と土地でしょうか?)ということにもなりますね。人間が文化をもつことができたのは、このような繋がり(過去から現在、地域と地域)のお陰だと考えることもできます。たぶん、人以外で何代も前の死を悼んだり、記憶したりする動物はいないのではないでしょうか(もしかしたら、チンパンジーなどの他の霊長類では在るかもしれませんが…)?小生は、この過去から現在に至る道程全てが文化だと考えているのですが、皆さんはどう考えますか?このように考えると、人の死にも大きな意味を見出すこともできます。
 ちなみに、写真は偶然みつけた蝉の抜け殻と死骸です。生の躍動と、死の静寂が同じ瞬間に存在しているかのような気分になります。たぶん蝉には、進化はあっても文化は無いのではないでしょうか?あくまで個人的な見解ですが。(S)

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