モノの本質、ヒトの本質

2013年3月27日

     

 本日、ついに六角堂のダルマストーブが撤去されてしまいました。まだまだ寒い日もあるかもしれませんが、そろそろ直火から巣立つ頃合いということでしょうか。今日は一日、六角堂の外から所在なさげに中を見つめるダルマストーブの表情がどこか寂しげにも見えましたね。
 そんな寂しげなダルマストーブと重ね合わせるような自らの心情もあり、休憩中にコーヒーカップを見つめながら、外に置いてあるダルマストーブとかコーヒーカップの本質っていったい何?などと、くだらないこと(?)に思考を傾けていました。もちろん、ダルマストーブの本質は、中に薪をくべて火を焚き暖炉として活用するモノ。コーヒーカップは中にコーヒーを入れて人が内容物を飲むための媒体となるためのモノ。それぞれデザインによって形は違っていても、本質となる型は同じ(要するに、コーヒーカップがコーヒーカップとして成り立つためには、大前提として底が抜けていたらコーヒーカップとしては成り立たないですね。ダルマストーブも同じです)だな…などと、本当にくだらないことで頭のなかはいっぱいでした。しかし、ここからが本題です。では、ヒトの本質は?モノは、何かをするために作られていますので、その本質は、それに耐えうるモノ。ヒトは何をしでかすかわからない(笑)ので、本質(ヒトとは、こうあるべきだ!かくあるべきだ!というやつですかね?)なんて無いのかもしれませんね。
 ダルマストーブの哀愁漂う姿から、本質(中身)の無い(薄い)自分自身の悲哀にまで思考がめぐる一日。悪いものではないのですが、はたから見たら、このヒト大丈夫だろうか?と心配されてしまいそうですね。う~ん…一滴文庫の六角堂でコーヒー片手に哲学Caféを開いてみたいですね。どこか近くに、いい講師の先生(ニーチェやハイデガー、もしくは西田幾多郎似の…)はいないものでしょうか?(S)